愛とお塩とスパイス

儚いから美しいの?

東京のモスクに行ってきて私にとっての宗教とは何か真剣に考えてみた

私の生まれがちょっとだけ複雑でわたし自身は幼児洗礼を受けたけれど神とは離れていて暮らしていたし知識として聖書は学んだけれど信仰告白してないからクリスチャンとは言えないし、けれど、小さいころにミサに行っていた記憶は朧気だけれどもたしかにある。同じぐらいの年の子塗り絵をしていた。しかしそれはきっと自分の意思ではない。じゃあ、神様を信じてないの?と言われれば言葉につまるし、それでも軽々しく「推しは神…!」とか言ってしまう。中途半端だ。

だから、東京にモスクがあって、見学ができると聞いた時は行かなくてはと思った。早急に行かなくてはこの機会を逃してはないけない。 私は生まれて初めて宗教的なものに自ら進んで足を運んだ。

東京ジャーミイ・トルコ文化センター

東京ジャーミイ代々木上原にある日本で一番美しいモスク。モスクというのは英語で、まぁ日本語的にいえばイスラム教の礼拝堂。見学はいつでもできる上に、土曜日曜は14:30から日本語のガイド付きで信仰者の礼拝も見学できる。電車から見える建物をただなんとなく見ている人も多いだろう。

おいおい、お前んちキリスト教なのになんでイスラム教の見学行ってんねんというツッコミを待ちたいところだけれども、結局の所、イエス・キリストの解釈の違いなだけて信じる神は一緒なわけであって、多分わたしのこの宗教へ対する興味は根本的なところから来ていると思ったので見学を決めた。何より私はケバブが好きだ。(東京ジャーミィではケバブの販売をしている)

14:20ごろに到着したらもう既に20人ほどいて、ガイドの方に連れられ2階にある礼拝堂へぞろぞろと連れていかれる。靴を脱ぎ、女性はスカーフで髪の毛を隠し(こちらは持参をする)ガイドさんの話を聞く。写真ももちろんオッケーだし(礼拝してる方はあまり撮らないでみたいなことを言っていたけれど多分それは肖像権的な問題で)礼拝中もガイドさんが割と大きな声で説明をしてくれてたしイスラーム教徒の子供たちはカーペットにごろごろしながら楽しそうで割と自由な空間だった。まぁ確かに偶像崇拝を禁止しているので礼拝堂に神がいるわけではない、あくまで礼拝をする為の場所なのだから当たり前といえば当たり前なのかもしれない。ガイドさんが色々話してくれるんだけれどそれが面白くて気づいたら2時間くらい聞いていた。

幾何学模様と植物模様のステンドグラスが入り込んでくる光が綺麗で踏み入れただけて泣きそうになった。 教会は聖母マリアやイエスだったりカブリエル・ヨハネ色んな人が描かれたステンドグラスがあり子供が文字が読めない人もそれを見て聖書の内容を学ぶ。だから、本当に模様だけで描かれたモスクのステンドグラスを見て少しびっくりした。なんて言えばいいのだろうか、質素…とは違うけれど飾られていない美しさというのか、イエスも信仰対象となるキリスト教とは違い、神と自分、しかいないイスラーム教っぽいってなんとなくだけれど思った。

イスラーム教においての男女

ガイドの方のお話の中で印象に残っているのが二つある。そのうちの一つが「イスラーム教は女性蔑視をしているのではないのか」これは、なんとなく、言いたい事がわかるのではないだろうか。現に女性は髪を隠さなくてはいけないし、お祈りをする場所も礼拝堂の中の更に2階のスペースでのみだった。「男女を分けることは差別ではなく区別です。女性蔑視をしている訳では無い。たしかに女性からお祈りの機会を奪ったら、学ぶ機会を奪ったら差別。でも場所を分けているだけで奪ってはいない。」「じゃあ、なんで男女隣でお祈りをしないかって、お祈りをするとき額づくんですね。顔がとても近づくんですよ。そのとき隣に女性がいたら男性の遺伝子としてね、やっぱり雑念が生まれちゃうんです。その雑念を神が禁止している。お祈りをするときは神と自分しかいない。親兄弟子供すべてを取り払って自分だけでするもの。だから男女で場所が違うんです。」「日本も男子校女子校ってあるでしょ?別に差別でもなんでもない。区別です。勉学スポーツ教養それを中心に身につけるために分けているだけ。どちらかの性を蔑視しているわけではないんです。」 なるほど……。そっか区別は差別じゃないんだなって。そりゃテレビから流れてくるニュースには色んなものがあるけれど、それは1部であって、実際日本だって現東京都知事に関して周りの男性たちがなんやかんや言ってたじゃないか。それが差別ではなくて、イスラーム教が差別と言われるのは少しおかしいなって自分の中でストンと落ちた。

宗教とは心の栄養

やっぱり出てくるのがこの話「イスラーム教って1日5回もお祈りしなきゃいけなくて大変じゃないんですか?」これはほかの教徒の人も言われたことあるんじゃないだろうか。「●●ちゃんって日曜日はいつも遊べなくて可哀想!」う〜ん。可哀想…とはちょっと違うんだよなぁって思ってたんだけれどガイドの方が言ってくれたのが「みなさんが食事を面倒だと思わないように宗教も心の栄養なんです」にめちゃくちゃ納得した。 本当に身体が限界で動けない時は適当に食べて眠れば肉体的心労はとれる。それでも動けなくなってしまうのはきっと心の栄養が足りてないときだ。「人間は弱い。神様の前で等しく人間はみな弱い。だから宗教がある。」なるほど。宗教というのは自分の弱さを目の当たりにした人間自身が縋るために創り出したものなんだよなぁ。それが多くの人にたまたま受け入れられたから宗教と呼ばれるようになったんだ。

日本の宗教=悪という風習はわたしはどうやったっても受け入れ難い。そりゃ宗教を使い残酷なことをする人たちを肯定は絶対に出来ないけれど、何かを信仰する気持ちはすべて等しく否定してはいけないのだとおもう。恋人に縋る人、音楽に縋る人、漫画にゲームにフィギュアに、文学に哲学に、アイドルにアーティストにスポーツ選手に、お金に株にギャンブルに。 人間は弱い。何かに縋らないと生きている価値を見いだせない生き物なんだ。呼吸をし、睡眠をとり、食事を摂る。それだけでは生きていけない贅沢な生き物だから、何かに縋る。

その何が、神であると説くのが宗教なんだなぁっておもう。めちゃくちゃ有意義な見学だったし勉強になったしこのことを考えるにあたってコーランも読んだ。とても興味をもったけれどイスラームの教えをすべて納得したわけでもやっぱり自ら熱心なクリスチャンになろうとも思わない。 でもやっぱり神はいるし私達は神の恵の元で生活しているのだと考える。それでも私にはそれだけではなくて、もっともっとたくさんのものを縋って信じて生きていきたい。 私にとっての宗教とは幸せになるための手段であって目的ではない。幸せになりたい。そしてわたしの周りの人も幸せであってほしい。あまり話したこともない人も、私のことが嫌いな人も、たまたまこのブログを読んだあなたも、地球の裏側で眠っているあなたも。みんな幸せになればいい。それを願うことが宗教ならわたしはこれから先も宗教を大切にしていきたい。

平和と慈悲で満ち溢れた世の中になりますようにと東京の片隅でそっと願う